宗教・転移的・自我による信仰と神の業による信仰という二つの信仰の段階(後)
- 文子 横木
- 2月17日
- 読了時間: 3分
【2】自我による信仰と神の業による信仰の違い
⑴ 宗教・転移的・自我による信仰とは、
自分が生育過程においてかかわった人(主として親)を通して、自分が考え出した神像を頭で信じている信仰。誰でも信仰の初めはこの過程を通る。この宗教・転移的・自我による信仰に留まっていると、自我が病んだ時、すなわち、自分の頭で考える事に大になる迷いが生じた時、それぞれ基本的不信の割合によって、統合失調症、躁鬱、神経症などの症状を発症する。(【1】参照の事)救われ、聖霊もいただいているが、魂的なクリスチャン(霊的幼児)に留まっている。病の在り方と悔い改めを通して、神の業による信仰に導かれる必要がある。これが症状が消失したというだけでない、クリスチャンとしての生まれ変わり、親替え、キリストによる癒しである。また、人間では無条件に甘えることはできないために一体感を感じる事が難しい
⑵ 神の業による信仰とは
これは、イエスをキリストと信ずる信仰(私の罪の為に十字架にかかり、死んで葬られ、3日目に蘇られたことを信じる第Ⅰコリント15:3~5)を持ち、心から傲慢と不信仰の罪を悔い改め=自我に死んで、復活のイエスに人格的に出会い、交わり続ける信仰の事を言う。それは、信じた時に聖霊は内住されたが、それだけにとどまり、聖霊と協働して聖化の道を歩んでいない者=霊的幼児とは違った大人の信仰、霊的進歩者である。宗教・転移的・自我による信仰から脱して神の業による信仰に至っている場合、神との一致にある召命を生きる信仰である。これはニコデモの言うようにもう一度胎内に入ることができなくても、イエスの言うように霊と水によって基本的信頼感が埋まることを現わす。胎内10ヵ月と生後8か月の間の基本的信頼関係を
100%埋める事ができるのは親を神として実子として生まれ変わる時に起こる。全面的に甘えられる体験ができるのは神だけであり、その甘え、一体感を満たすために神を希求することは、聖化の道の原動力にもなっている。
【3】自我による信仰と神の業による信仰のスランプに対する違い
自我による信仰の場合は、反応性・内因性症状としての訴えがある。医療との連携、服薬治療も必要である。この時、宗教的症状とらわれて、祈るだけであったり、悪霊追い出しをすることは回復への妨げとなる。根本的病理を理解し、自我を修正しつつ、キリスト教の基本的教理を確認することが新生への道である。
神の業による信仰の場合は、自我による信仰での問題解決を踏まえ、悔い改め、必要なならば悪霊追い出をするが、特にみ言葉による試練の中での信仰について再考、再決断が必要である。
赤星進著 心の病と福音 (上)第3章 統合失調症と躁鬱病の宗教精神病理学的現象と伝道 2,3を参考にしました
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